2011年4月25日月曜日

4月24日

仙台の被災地へ行ってきました。
昨日、23日の土曜の夜に夜行バスに乗り、24日の夜、ほぼ日帰りで戻ってきました。避難所など、色々と見て来た所もありますが、今回は直接津波で流されてしまった場所の景色について書きます。

ご存知の方もいるかと思いますが、僕の父は外務省で医務官をしていて、今、タンザニアに勤務しています。
その父が先週一時帰国をして、仙台の被災地へ支援に行くとのことだったので、父の誘いがあり、同行させてもらいました。
父が参加した徳州会病院の支援チームは、かなり専門的な支援を行っている団体で、本来、僕なんかが参加できるようなものではありません。
正直、父の誘いが無ければ、自分から被災地へ行く決心はつかなかったと思います。

今僕の在籍している大学院の映像研究科、メディア映像専攻は、映画やアニメに限らず、かなり幅広い意味での映像を扱っている所です。仙台にはメディアテークという様々なメディアを扱った複合文化施設もあり、教授陣の震災への意識も非常に高く、そのうちゼミで向こうに行く可能性もあるようです。
そういう場所にいる僕が今、何かやるべきことがあるとしたら、それは被災地の記録をどのように行うかということについて思考することも、そのひとつだと思っています。

仙台市内は、3月11日から1ヶ月以上経っていることもあってか、言われなければ震災があった地域とはわからないくらいの状態になっていました。わずかに地面が隆起していたり、瓦屋根の一部が落ちてそのままになっていました。
しかし、車で海沿いの方に進んでいくと、ある地点で、世界が全く変わってしまっていました。
津波は、本当に小さな差で、世界を分けてしまうようです。わずか数mの標高の差で、家を根こそぎもっていかれた場所と、全てがそのままで、普段通りに生活しているように見える家がありました。

震災のあと、どのような形での被災地への支援がありえるのかとということを考える中で、チャリティーや寄付について、思ったことがあります。
今も、様々なチャリティーや寄付活動が行われていますが、僕にはそれが、合理的に考えれば必要なことだと思う一方、心情的には、それが良いことだとはまるで思えませんでした。それは、寄付を行う際に感じる、罪の意識のせいです。
最初、その感覚が何の為かわからなかったのですが、よくよく考えてみると、たくさんの死者が出るような大災害が身近で起こっているというのに、自分が安穏に生き、生き残ってしまったことへの罪の意識だとわかりました。
その罪の意識から救われたいがために、僕は寄付を行い、その他の方法によっても、被災地への支援を行いたいと考えているのだと思います。
そんな中、友人から、能の舞台についての記事を紹介して貰いました。

内容をかいつまんで書くと、能には主に、シテとワキと呼ばれる登場人物でできていて、シテとは主人公であり、ワキとは「脇」のことである。シテは幽明を彷徨う存在として描かれ、ワキは現実世界の人間である。ワキはたいてい諸国一見の僧として描かれ、なんらかの無念な過去を持つシテと出会う。ワキはただ問い、シテの話を聞く。そうしてやがて、ワキはシテの無念をはらす。
特徴的なのは、ワキはシテと違い、何もせず、ただ話を聞くだけの存在であるにも関わらず、シテの無念をはらすため、なくてはならない存在として、能の世界に組み込まれているという点だ。
このことを今回の震災にあてはめてみると、日本人はこの壮大な「負」をどのように引き取るかということが問われている。
といった内容の記事です。

興味があったらよんでみてください。
http://www.honza.jp/senya/1411

幽霊のような存在であるシテを、いかにして成仏させるか。これはかなり、日本的なテーマであると思います。西洋の幽霊は日本のような幽霊ではなく、モンスターとして描かれ、肉体もあり、弱点もある。西洋では幽霊でさえ、ある程度、合理的に解決可能な問題として扱っているように見えます。僕はこれは、死というものをどう捉えるかということに繋がっていると思っています。西洋では死者を魂と肉体に明確に分け、肉体に肉体以上の意味を与えない。死体は死体である。しかし、日本ではその境があいまいで、死体を穢れとして、過剰に隠す傾向があると思います。肉体と向き合わず、隠してしまうことで、心に溜まった澱のようなものが、日本的な幽霊という存在を生み出しているのではないでしょうか。
どちらが良いということではなく、これは西洋の風土と日本の風土の違いが表れている問題だと思います。

今回、被災地を見て、薄々感じていたことが、確信に変わりました。
人の作る物は、紙屑と大きく変わらないということです。
これは、心情的な意味だけではなく、物理的に、津波という大きな力の前では、紙も、家も、車も、全て同じようにくしゃくしゃになってしまいます。多少の差はあれ、たいていのものは洗濯機に入れたティッシュのようにばらばらになります。
アスファルトはチーズのようにはがれ、車はビルの上に乗り、高架の線路の上に家がまるごと乗っている。投網が家々にぐしゃぐしゃにはりついている。ビールのボックスがたくさん木の上にひっかかっている。

日本人はきっと、そういう景色を何度も何度も見て来たのでしょう。だから、時間をかけて本当の肉体と向き合うことなく、起こったこと全てを心の中に隠して前に進む。問題と本当の意味で向き合うことは、残酷なことをたくさん含んでいて、長い時間をかけなければ、できることではないのだと思います。
おそらく、こんな大災害が起きてもなお、日本人は、同じ場所に家を建てるのではないでしょうか。漁業などを営んでいて、その場所を離れられない理由もあるでしょうし、単に、起こったことを全く忘れてそこに家を建ててしまうということもあると思います。忘却と復興は、同時に行われると思います。忘れなければ、復興はできない。おそらく、それが災害から復興するということの、ひとつの側面なのではないでしょうか。

今回、とても興味深かったのは、高台にある神社の社が、かなり目立つ形で残っているところを見られたことです。
実際、神社仏閣といえど、流されてしまった場所はたくさんあると思います。しかし、周りの全てが流されてしまった中で、高台に、社だけがこつ然とある姿を見ると、その姿こそが、そこに社がある本当の意味だったのだと感じることができます。

今回は、ビデオによる記録も多く撮ってきましたが、おそらく、何もうつっていないと思います。映像は、人間の社会を写すものです。津波は、人間の社会をずっと越えたところにあります。その場所のどこを撮っても、なくなってしまった跡にしかなりません。
僕は今回、能のワキになったつもりで、映像を撮ってきました。
多分、そこまでのことは出来ていないと思いますが、自分自身で、自分の抱えるシテを成仏させることができるかどうか、試してみたいと思っています。

まだ自分の撮ってきた映像をきちんと見ていないので、それを見てから、もう少し考えてみたいと思います。

正直、感情が高ぶって泣きそうになる景色ばかりで、精神的にはかなりつらかったです。



追記

被災地の現状など質問があったので、答えます。

まず交通についてですが、僕は今回、徳州会所有のバスで行きました。
帰りは電車で普通に戻ったので、仙台駅までの交通は、地下鉄などに一部不通があるそうですが、ほぼ回復しているようです。

津波で流された地域に関して。僕は徳州会のスタッフの方に同行する形でした。実際に徳州会のジャンパーを着て、徳州会の関係者としてスタッフに案内等を受けた上、撮影などを行っています。ただ、僕は実際、徳州会とはほとんど何も関係がない人間です。被災した場所を撮ることには、倫理的な葛藤もあります。個人として、被災地の役には全くたっていません。食事は、仙台の直接津波の被害のあった地域以外は
、ほぼ流通も回復しているらしく、徳州会で用意されたものを食べました。

この段落は、スタッフの方に聞いた話です。避難所の現状ですが、物資がかなり余っているようです。被災地に物資が足りないところもまだあるそうですが、行政の方のやるべきことに比べ、人数が足りていないためではないかと聞きました。体制を整えて、継続的な支援が必要です。避難所は毎日たちかわり有名人がくるそうで、さながらイベント会場のようだとの批判もあります。ボランティアは、その団体の活動内容をきちんと調べて行く必要がありそうです。専門的な仕事には携われないので、専門職の方の取り次ぎが主な仕事になるようです。

被災地を撮ることに関して。津波で流された地域は、当然ですが、今ほとんど人がいません。
家に物を探しにきたりする人もいるようですが、海岸の被害が大きかった場所では、調査や工事関係の人が少しだけいるような感じでした。ただ、見にきたような人も少しいました。
観光に行くわけではないので、何も考えず写真等を撮ることはするべきではないと思います。
僕の行ったことも、未だに葛藤があります。
今回は案内の人がついていましたが、今後すぐに、個人として撮りにいけるかというと、かなり難しいです。今回したことも、許されることばかりでは無かったと思います。
今後、自分が何をしていくかについても、さらに、考え続けていかなければならないと思っています。今後も、折に触れて書いていきます。

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